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宮古島島民遭難事件から140年、日台遺族が和解の握手


ニュース 社会 作成日:2011年11月24日_記事番号:T00033938

宮古島島民遭難事件から140年、日台遺族が和解の握手

 宮古島から琉球王国の首里王府へ年貢を納め、帰途についた琉球御用船が台風で遭難したことが発端となった歴史事件がある。1871年10月に起きた「宮古島島民遭難事件」だ。台湾では遭難船が漂着した地名を取って「八瑤湾事件」と呼ばれている。


被害者の遺族代表、野原耕栄さん(左)は小さいことから祖父や父親から事件について聞かされていたという(23日=中央社)

 当時、宮古船の乗員69人のうち3人が溺死し、66人が台湾南部に漂着したものの、先住民のパイワン族によって54人が殺害された。12人の生存者は漢人により救助され、台湾府の保護を受け、福建省福州経由で宮古島へ送り返されている。

 宮古島民は、台湾漂着1日目はパイワン族から芋粥などを振る舞われる歓迎を受けたにもかかわらず、2日目には次々と殺害(当時の風習により首狩り=斬首)されたのはなぜか?この140年前の歴史の真相を探るため、23日に台湾で国際学術シンポジウムが開かれた。

 事件に詳しい国立台北教育大学の楊孟哲教授によると、殺害の動機は、言葉が通じなかったことが原因の誤解のようだ。パイワン族は宮古島民を狩りに招待したが、宮古島民は恐怖からこっそり逃走したため、パイワン族の怒りを買ったという説もある。

 楊教授は2004年、加害者側のパイワン族の遺族と一緒に宮古島に赴き、被害者の遺族に謝罪している。今回は、被害者の遺族である野原耕栄さんが台湾に招かれ、加害者遺族を代表する屏東県牡丹郷のパイワン族、華阿財さん、生存者を救助した漢人村長、楊友旺さんの遺族である楊信徳さんと一堂に会し、3者が和解の握手をした。

 明日25日には、犠牲者54人が葬られる墓碑の前で、初の合同慰霊祭が執り行われる予定だ。子孫による140年振りの和解に、犠牲者も草葉の陰でほほえんでいることだろう。

 なお、この事件が引き金となって、明治政府は1874年、台湾に出兵(牡丹社事件)した。最終的には清国が日本に賠償金を支払い、原住民の取り締まりを承諾することになる。植民統治以前の日台関係史である。