ニュース 社会 作成日:2015年8月3日_記事番号:T00058465
太平洋戦争中、米軍潜水艦の攻撃によってバシー海峡で命を落とした戦没者を弔う慰霊祭が2日、海峡を望む屏東県恒春鎮の潮音寺で開かれ、日本から参加した遺族らを含む160人が鎮魂の祈りを捧げた。
海峡に向かって祈りを捧げる吉田宗利さん(前列右1)ら(2日=YSN)
バシー海峡は当時日本領だった台湾と南方の戦場を結ぶ交通の要衝で、日本軍の多くの軍艦や輸送船が行き来した。しかし、米軍に制海権を握られた1944年以降は潜水艦による魚雷攻撃で輸送船が相次いで撃沈され、「輸送船の墓場」「魔の海峡」と呼ばれた。犠牲者は少なくとも10万人に上るとされ、墾丁一帯の海岸には数多くの遺体が流れ着いたという。
潮音寺は、44年8月に撃沈され4,800人が犠牲になった輸送船、玉津丸の生存者、中嶋秀次さん(2013年没)が、犠牲者を弔うため81年に私財を投じて建立した。中嶋さんは当時、12日間の漂流の末、奇跡的に救出されており、その模様を描いたノンフィクション作家、門田隆将氏の『慟哭の海峡』が昨年出版されたことが契機となって今回の慰霊祭が実現した。
慰霊祭ではバシー海峡で撃沈され死亡した駆逐艦呉竹の吉田宗雄艦長の長男で、佐賀県小城市で寺院の住職を務める吉田宗利さん(73)が読経を行い、参加者全員が焼香を行った後、海辺の突堤で菊の花の献花を行った。「皆さん、日本に帰ろう」と海峡に向かって戦没者たちへの呼び掛けが行われ、目頭を押さえる遺族らもいた。
姫路市から訪れた有方美奈子さん(73)は、玉津丸に乗っていた父(当時27)がバシー海峡で亡くなった。まだ3歳だったが、父が出征する時、灯火管制で闇に包まれた夜の姫路駅で、父や他の出征者たちのたばこの火がホタルの光のように舞い、「きれいだなあ」と感じたことを覚えている。有方さんは父と母が出会えるようにと、6年前に95歳で亡くなった母の遺骨の一部を浜辺で散骨した。また、日本に持ち帰るため、砂浜の砂を小さな袋に詰めた。母の骨壷に入れてから、まだ済ませていない納骨をする予定だ。「父はどんなに苦しかったろうと思う。父が来た場所に来れて、お迎えができて本当によかった」と語った。
大分市から訪れた萱野喜代子さん(71)は、生後半年で陸軍兵長だった父(当時29)を失った。「父の顔は知りませんが、母に宛てた最後の手紙に、たとえ自分がいなくなってもこの子だけは立派に育ててくれと書いてあったそうです。今回、一つの区切りを付けることができてよかったです」と語った。
かつて多くの日本人の命を飲み込んだバシー海峡は8月の強い日差しの下、過去の悲劇も遺族らの追悼の思いも全て包み込むかのように青々と広がっていた。慰霊祭を企画した有志グループは、今後も実施することを計画している。
墾丁の砂を入れた袋を持つ有方美奈子さん(2日=YSN)
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