ニュース 社会 作成日:2016年2月23日_記事番号:T00062106
 生涯で約500冊もの日本語書籍を翻訳して台湾に紹介した翻訳者、劉万来氏が今月17日に死去した。89歳だった。同氏は1960年代、子供向け書籍を数多く手掛けており、当時、幼少時代を過ごした世代であれば誰もがその名を目にしたことがあるものの、彼がどのような人物かはよく知られておらず、「伝説の翻訳者」と呼ばれており、各界からその死を惜しむ声が上がっている。
日本統治時代の1929年、現在の南投県水里郷に生まれた劉氏は、日本語教育を受けて育ち、一昨年大ヒットした映画『KANO』で一躍有名となった嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)へ太平洋戦争末期に進学。終戦後は社会が大きく転換する中、教師として小学校に勤務しつつ、縁を得て台南の出版社、大山書局から翻訳の仕事を請け負った。
生前、翻訳業を手掛けるようになったきっかけについて劉氏は「当時は子供の読み物が少なかったし、家計を少しでも楽にしたいと考えたため」と語っている。
ただ当時は戒厳令が敷かれ、厳しい検閲が行われていた上、反日政策が取られていたことから日本に関するさまざまな言葉がタブーとなっていたため、劉氏は翻訳する際、「日本の汽車」を「アジアの汽車」、「戦艦大和」を「黄帝号」に置き換えるなど気を使うことも多かったようだ。
しかし台湾大学歴史系の周婉窈教授は、「閉塞した時代に彼が翻訳した書籍は多くの子供に幸福をもたらし、大きな影響を与えた」と指摘。その翻訳書に影響を受けた1人、師範大学地理系の洪致文教授も「小学生のころに劉氏が訳した『汽車・鉄道図鑑』や『電気機関車図鑑』を買って読んだことで鉄道に興味を持つようになったが、大学に入って鉄道サークルを作った時、メンバーの誰もが彼の本を読んで大きくなったということが分かった」と語っている。
劉氏の娘、劉碧真さんと劉碧玉さんによると、当初、生活費のために始めた翻訳仕事だったが、後年、経済的に困らなくなると収入を寄付するようになったそうで、地元に困った人を助ける福祉団体を設立するなど義に厚い人物でもあったようだ。
なお劉氏は昨年、最後の著作として自伝を出版しており、劉碧玉さんは父親の印象について「一生、机の前で本を読んでいた」と語っている。
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