ニュース 社会 作成日:2017年9月19日_記事番号:T00072957
台中市に住む李錦上さん(91)は日本統治時代から俳句や短歌など日本語による創作活動を続けており、良作ができると日本の新聞にも投稿している。そんな中、昨年、読売新聞の短歌投稿欄「読売歌壇」に投稿した作品が2016年度の「年間賞」に選出された。
李さんは彰化県の鹿港第二公学校(台湾人子弟向けの小学校、現在の文開国民小学)の4年生だった時、教師の中山茂さんから文才が認められ、特別に指導を受けるようになったという。
李さんは公学校を卒業した後も中山先生と手紙のやり取りを続け、14歳のころから俳句などの創作を開始した。
さらに彼は鹿港第一公学校高等科(中学校に相当)を卒業後、日本海軍の燃料工場に勤務するようになり、訓練のため三重県四日市に派遣されたが、休日を利用して文芸サークルに参加するなど創作への情熱を抱き続け、1943年にはわずか16歳で当時の有力文芸誌「ホトトギス」に投稿した俳句が入選を果たした。
その間、中山先生とは疎遠となっていたが、終戦により日本へ引き揚げることになった際、先生は、台湾に戻っていた李さんに蔵書の全てを彼に贈呈したそうだ。
戦後、小学校の教師となった李さんは中山先生との交流を続ける一方で、日常生活で感じたことを俳句や短歌、川柳などに表現するというスタイルで日本語による創作活動もやめることなく、現在までに書きためた作品は1万首を超えているという。
なお中山先生は十数年前に他界したが、「師母(先生の妻)」とは年賀状や電話を通じて連絡を保っている。しかし昨年4月、師母が住む熊本県で大地震が発生。心配した李さんは何度も電話をかけたがつながらず、無事を確認する手紙を出すしかなかった。
そんな時、いつもの習慣から自分の気持を「熊本の師母つつがなく居たまふやつながらぬ電話今日もかけたり」と短歌に表現して「読売歌壇」に投稿したところ、これが5月の月間賞に輝いた。その約1カ月後、師母から無事を知らせるはがきが届いたそうだ。
そして今年1月、その時の作品が昨年の年間賞を受賞。選評では「生涯にわたる長い心の交流を示す歌」と高く評価された。
なお李さんは若き日に自作が掲載された「ホトトギス」を大切に保管していたそうだが、59年に発生した大規模な水害で流されてしまったという。しかし1カ月ほど前、台北市で開かれた句会に参加した際、福岡県から出席した日本人同好者3人がそのことを知り、彼のために74年前の雑誌を見つけ出してくれたそうだ。その紙面には「朝顔にしろがねの星大きかり」という作品の下に間違いなく「李錦上」の名が刻まれていた。
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