ワイズコンサルティング・グループ

HOME サービス紹介 コラム グループ概要 採用情報 お問い合わせ 日本人にPR

コンサルティング リサーチ セミナー 経済ニュース 労務顧問 IT 飲食店情報

国父紀念館の設計者、王大閎氏が100歳で死去


ニュース 社会 作成日:2018年5月30日_記事番号:T00077333

国父紀念館の設計者、王大閎氏が100歳で死去

 国父紀念館を設計したことで知られる著名建築家、王大閎氏が28日午後7時過ぎ、寝ている間に亡くなった。100歳だった。

/date/2018/05/30/18kakomi_2.jpg建築によって戦後台湾で時代を築いた王大閎氏。東洋と西洋、伝統と現代の調和が高い評価を受けた(29日=中央社)

 中華民国外交部や司法院のトップを歴任した王寵恵氏の長男として1918年に北京で生まれた王氏は、幼少期を上海や蘇州で過ごした後、30年に父親の勤務地だったオランダへ渡り、さらにスイスの中学校へと進んだ。36年には英ケンブリッジ大学へ入学し、機械学を学んだものの、後に専攻を建築学へと変更した。

 当時、欧州は情勢が不安定だったことから、父親の手配の下、41年に米国へ渡り、ハーバード大学で建築の勉強を継続した。なお当時の同級生にはルーヴル美術館のガラスピラミッドを設計したことで知られる中国系の建築家、イオ・ミン・ペイ氏(101)がいた。

 大学卒業後、上海や香港で建築士として活動していた王氏は、49年に国民党が台湾に拠点を移したことに伴い、52年に台北市へ移住。ここに建築事務所を構えた。

 西洋の建築技術を学んだ華人としては第一世代に当たる彼は61年、建設が計画されていた故宮博物院の設計案を作成し、コンペティションで優勝を果たした。しかし当時、台湾では中国の文化大革命に対抗して中華文化の復興運動が盛んだったため、西洋風で現代的なイメージが強かった王氏の設計案は「中国的ではない」との理由で採用が中止となった。

 それでも彼は、65年に行われた国父紀念館の設計コンペで12組のライバルを下して優勝を勝ち取った。ただこの時も、翼のようなデザインの屋根を取り入れた設計に対し、蒋介石総統から「清朝の宮殿様式」に変更するよう求められたという。しかし王氏は「清朝を倒した辛亥革命を主導した孫文の記念館を清朝風とするのはおかしいのではないか」と説得。これが認められて原案通りの設計で建設されることになったそうだ。

 王氏は台湾大学の校舎や教育部、外交部など政府関連施設の設計も数多く手掛けた。しかし、台湾社会の西洋化が進むとともに今度は「中国的過ぎる」との評価を受けるようになり、徐々に社会から存在が忘れ去られていったが、10年ほど前、専門家の間で再評価が進み、台湾現代建築の発展に大きく貢献したとして国家文芸賞、行政院文化賞を相次いで受賞した。