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裕隆集団の厳凱泰董事長が死去、台湾ブランド車の夢追った生涯


ニュース 自動車・二輪車 作成日:2018年12月4日_記事番号:T00080745

裕隆集団の厳凱泰董事長が死去、台湾ブランド車の夢追った生涯

 自動車大手、裕隆集団の厳凱泰(ケネス・イエン)董事長兼執行長が3日、食道がんで死去した。享年53歳。20代から30年近くにわたってグループ経営を主導、再建に導き、晩年は自社ブランド、納智捷汽車(ラクスジェン・モーター)の成功に心血を注いだ。早世を惜しむ声が多く聞かれる中、今後のグループ経営は妻の厳陳莉蓮氏に委ねられる。4日付経済日報などが報じた。

/date/2018/12/04/00top_2.jpg厳凱泰氏。アルマーニを着こなすイケメン経営者としても知られていた(中央社)

 厳凱泰氏は裕隆汽車製造(ユーロン・モーター)の創業者、厳慶齢氏の養子で、唯一の後継者として育った。1989年に留学先の米国から帰台すると、24歳の若さで裕隆汽車の首席副総経理に就任し、実際の経営を任された。

 裕隆汽車は93年から95年にかけて、台湾自動車メーカー初の自社設計による国産車「飛羚101」の失敗が響き、3年連続の赤字に陥ってしまう。製造は裕隆、販売は国産汽車の分業体制の課題を抱え、供給元の日産自動車との関係は悪く、一時は台湾自動車市場でのシェアが20%にまで落ち込んだ。

 厳氏はこの際、台湾各地4カ所に分散していた事業拠点を苗栗県三義郷に集約。幹部と共に工場内の3坪の施設で寝起きして改革に取り組んだ。96年、日産との共同開発モデルの「セフィーロ」を台湾で生産、「国民車」と呼ばれる人気を博し、黒字を回復して裕隆の立て直しに成功した。

ラクスジェンを立ち上げ

 日産と三菱自動車の台湾総代理店である裕隆集団は、販売だけに徹していたら楽に利益を上げられるが、厳氏は自社ブランドの夢を追い、2009年に「ラクスジェン」を立ち上げ、台湾と中国、ロシアで多くの車種を販売している。ラクスジェンは、台塑集団(台湾プラスチックグループ)による台朔汽車(フォルモサ・オートモービル)の失敗後、台湾唯一の独自の自動車ブランドだ。

 しかし、ラクスジェンは研究開発(R&D)がボトルネックに直面し、今年1~11月の販売台数は前年同月比20.7%減の7,388台と落ち込んでいる。窮状を打開すべく、日産GT-Rの開発責任者を務めた水野和敏氏に開発への協力を求め、5年間で10モデルの新車を発表する「510計画」を昨年発表したばかりだったが、厳氏はその成功を見ることなく寿命を迎えてしまった。

 食道がんは16年に発覚、この2~3カ月で病状の悪化が進んだという。

厳陳氏が執行長に

 厳氏は娘1人と息子1人をもうけたが、まだ幼いため、妻の厳陳氏が執行長として経営を引き継ぐ。厳陳氏は女子バスケットボール元台湾代表の経歴を持つ。厳陳氏を陳国栄副執行長や林信義・元中華汽車工業(チャイナ・モーター、CMC)総経理ら重要幹部5人が補佐する体制で、経営移行に空白は生じない見通しだ。

 裕隆集団は、裕隆汽車、裕隆日産汽車、中華汽車、 ラクスジェン、および中国合弁の東風裕隆汽車など自動車事業を中心に、自動車ローン会社の裕融企業(TAC)、レンタカーの格上汽車租賃(カープラス)、損害保険の新安東京海上産物保険、繊維事業の台元紡織などから成る。グループ全体の年間売上高は3,000億台湾元(約1兆1,000億円)に上る。