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李登輝元総統が死去、台湾に自由と民主残す(トップニュース)


ニュース 政治 作成日:2020年7月31日_記事番号:T00091313

李登輝元総統が死去、台湾に自由と民主残す(トップニュース)

 台湾を民主化に導いた李登輝元総統が30日午後7時24分、入院先の台北の病院で死去した。97歳だった。1988年に台湾出身者として初めて総統に就任後、前年までの38年間国民党独裁による厳戒令下にあった政治体制の改革を推進し、96年には初の総統直接選挙で当選した。99年には「二国論」を主張し中台関係の悪化を招くも、民主化の過程で台湾人意識の醸成に大きく寄与し、2000年の総統退任後は台湾独立派を精神的に支えた。蔡英文総統がその功績を「台湾を台湾人の台湾にした」とたたえるなど、各界から死を悼む声が上がっている。31日付聯合報などが報じた。

/date/2020/07/31/00li_2.jpg李元総統(中)。19年10月19日の最後の公式活動に車いすで出席した(中央社)

 李元総統は今年2月、牛乳を喉に詰まらせ誤嚥(ごえん)性肺炎を発症、台北栄民総医院(タイペイ・ベテランズ・ジェネラル・ホスピタル)で174日間入院していた。感染症による敗血症性ショックと多臓器不全で繰り返し昏睡(こんすい)状態にあり、最後の10日間の容体は不安定で、家族の同意の下で薬の投与が止められた。

 日本統治時代の23年に現在の新北市で生まれた李元総統。京都帝国大学(現・京都大学)農学部で学んだ経験があり、知日派として知られた。

 安倍晋三首相は31日、「日本と台湾の親善関係、友好増進のために多大な貢献をされた。多くの日本国民は格別の親しみを持っている。心からご冥福をお祈りする」と述べた。

 日本の台湾での窓口機関、日本台湾交流協会の大橋光夫会長は、「生涯を賭して日台関係の礎を築いてきた偉大なリーダーを失い、深い悲しみと寂しさに包まれている。李元総統は、国際社会でも随一の知日派リーダーとして、情熱を傾けて日台関係の発展のために心を砕き、多大なる尽力をしてきた。常に未来を切り拓いてきた李元総統に続くべく、今日最良と言われる日台関係をさらに発展させることが、残された我々(われわれ)ができる唯一の恩返しだ」と語った。

「静かなる革命」後世に

 蔡総統は、李元総統は「台湾の静かなる革命を率い、台湾を台湾人の台湾にした。李元総統が台湾に残した自由と民主は、新しい時代も台湾人の道しるべとなる」と語った。

 李元総統は、農業の専門家として見込まれ、71年に国民党に入党(01年除名)し、行政院政務委員、台北市長、台湾省主席を歴任後、84年に蒋経国総統の下で副総統に就任した。88年に蒋経国総統が死去したことに伴い総統に就任し、計12年間務めた。90年の学生による民主化運動「野百合学運」では学生の代表と面会し、「国是会議」を設置し改革を進めると表明した。

 その後は、国共内戦対応のために制定され権力集中を招いていた憲法の臨時条項の廃止、憲法の6度の改正を主導し、中国本土で選出され改選ができない「万年議員」が居座っていた国民大会と立法院の全面改選を91年と92年に実現したほか、総統を市民の直接選挙に改めた。台湾市民の民意が政治に反映されるようになり、00年の国民党から民進党への政権交代につながった。

 経済関連では、世界貿易機関(WTO)の前身である関税および貿易に関する一般協定(GATT)に「台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域」の名義を用いて加盟申請を行うなど、実務外交により国際社会での地位拡大にも尽力した。WTOへの加盟は、中国とほぼ同時の02年に実現することになる。

 また、加速していた企業の対中投資では「戒急用忍(急がず忍耐強く)」の政策を採り、ハイテク分野やインフラ関連などで技術と資金が過度に流出するのを規制した。

「二国論」で中国反発

 中国との関係の位置付けでは、95年に母校の米コーネル大学を訪問した際の講演で「中華民国は台湾にある」との立場を初めて表明した。98年には台湾省の行政機能を大幅に凍結、99年には「二国論」と言われる「特殊な国と国の関係」を主張するに至り、「一つの中国」政策を掲げる中国側の激しい反発を招いた。総統退任後の01年からは、台湾独立派の政治団体、台湾団結聯盟(台聯)の精神的指導者とされた。

 中国メディアの多くは李元総統の死去について、論評をほとんど加えずに報じた。中国・国務院台湾事務弁公室(国台弁)は、台湾独立は行き詰まりの道で、国家統一と民族復興の歴史の大勢は、どんな人物や勢力にも止められないとコメントした。