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巨人などで活躍の呉昌征氏、台湾の野球殿堂入り


ニュース 社会 作成日:2018年1月5日_記事番号:T00074860

巨人などで活躍の呉昌征氏、台湾の野球殿堂入り

 昨年12月、台湾の野球殿堂に当たる「台湾棒球名人堂」に初めて設けられた「終身貢献賞」の投開票が行われ、台湾出身で1937年から57年の長きにわたり日本のプロ野球界で活躍し、その俊足、強肩ぶりから「人間機関車」と呼ばれた故・呉昌征(石井昌征)氏(1916~87)の殿堂入りが決定した。これにより同氏は、ソフトバンクホークス会長の王貞治氏(76)に続き、2人目の日台双方での殿堂入り達成となった。

 日本統治時代の1916年に現在の高雄市で原名「呉波」として生まれた呉氏は、嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)に進学して野球部に所属し、31年には夏の甲子園大会に外野手兼投手として出場。見事、準優勝を果たした。そのエピソードを基に制作された映画『KANO』が2014年に公開され、大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。

 呉氏はその後、37年に東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)に入団。42年、43年には2年連続で首位打者を獲得するなどトッププレーヤーとなった。さらに44年に移籍した阪神軍(現・阪神タイガース)でも1年目に盗塁王に輝いたほか、戦後間もない46年には選手不足のチーム事情から投手としてもローテーションの一角を占めるようになり、同年6月には戦後初のノーヒットノーランを達成。シーズンを通じてもチームトップの14勝を挙げた。

 その後、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)へ移籍して57年に引退するまで実働年数は当時は史上初だった20年間に及んだ。打者として1,326安打、打率.272、381盗塁、投手として15勝、防御率3.48の通算成績を残し、87年に70歳で死去した後、95年に日本の野球殿堂入りを果たした。

 なお呉氏は43年に本名を「石井昌征」に変更し、日本籍に帰化したが、選手としての登録名は「呉昌征」を使用し続けた。

 13年に創設された台湾の野球殿堂は「プレーヤー部門」と「特別貢献部門」に分かれ、選考委員による投票で75%の得票率を獲得すれば「殿堂入り」となる。呉氏は第1回の選考会から連続でプレーヤー部門にノミネートされたが惜しくも落選していた。

 しかし今年、運営団体は先達の功績を広く知らしめることを目的とし、過去に3回以上候補に上がり、かつ得票率で一定の条件を超えた者を対象に「終身貢献賞」を新たに設置。呉氏を含む3人が初の受賞者に選出された。