第63回 高度経済成長の追憶、孫運璿記念館を訪ねて


ニュース 政治 2016年11月4日

編集長のニュースに肉迫!

第63回 高度経済成長の追憶、孫運璿記念館を訪ねて

記事番号:T00067245

 読者の皆さんは、孫運璿という台湾の政治家をご存じだろうか。台北都市交通システム(MRT)松山新店線の小南門駅近くに彼の記念館があり、先月10月30日に開館2周年を迎えた。戦後に活躍した蒋介石・蒋経国親子以外の政治家で記念館が設けられた例は珍しいので、興味を抱いて足を運んでみた。

 彼は蒋親子2代にわたって経済部長や行政院長を務め、台湾の高度経済成長を指揮した人物として50代以上の台湾人で知らない人はいない。

/date/2016/11/04/21news1_2.jpg正面入口に飾られる孫運璿の写真。脳卒中を患った後は車いすで過ごした

 その孫運璿科技・人文紀念館は、総統官邸からほど近い重慶南路二段にある。建物は日本統治時代の台湾銀行官舎で、戦後ある時期から行政院長官邸として使用された。孫運璿は行政院長在職中の1980年に移り住み、84年に脳卒中で倒れ、長いリハビリ生活を経て06年に92歳で死去するまでの26年を過ごした。当初は全て和式だったが、洋式を好んだ彼は2棟の建物のうち1棟を洋式に建て替えたため、2階建ての洋式と平屋の和式の建物が並んで立ち、渡り廊下で往来する造りとなっている。開館2周年を記念して正門前の芝生に30個の赤い風船が飾られ、来館者らが孫運璿をしのぶ言葉を書き記していた。

/date/2016/11/04/21news2_2.jpg孫運璿記念館の洋式建物

電力整備で日本人見返す

 孫運璿は中華民国が誕生して間もない1913年、山東省に生まれ、ハルビン工業大学を首席で卒業、戦後46年に台湾電力の機電処長に任じられ、国民党が国共内戦で敗れる前にいち早く台湾に来ている。その回想によると、太平洋戦争に敗れて旧台湾電力株式会社の3,000人以上の日本人技師が送還される際、「われわれが日本に帰れば台湾は3カ月で真っ暗闇になる」と告げられたが、孫運璿は「負けてなおわれわれを見下すのか」と発奮。中国大陸から呼び寄せた技師や台湾の工業学校の学生らとともに各地の電力の修復に回り、5カ月で台湾全土の電力供給システムの大部分を回復させた。台湾電力ではその後62年に総経理に昇進した。

半導体産業の生みの親

 67年、厳家淦内閣で交通部長に就任した。当時は後に「10大建設」と呼ばれる大型インフラの計画期で、北回鉄道、中正国際空港(現在の桃園国際空港)、台中港、中山高速公路(国道1号)などの建設計画を推進する。69年、前任者の病死によって経済部長に抜てき。台湾の高度経済成長が第一次石油ショックによって曲がり角を迎えた73年、サウジアラビアを急きょ訪問し、国王との直談判で経済協力と引き換えに原油確保の約束を取り付ける。 

 ハイテク産業の発展を目指して、当時の韓国科学技術研究院(KIST)に倣って、半官半民の工業技術研究院(工研院)を設立。半導体を主力産業に育成する方針を決め、米国企業で働く台湾の技術者を高給で呼び寄せ、反対者も多い中で、米国企業に高額なライセンス料を支払って技術移転を進めた。ちなみに後に台湾積体電路製造(TSMC)を立ち上げる張忠謀(モリス・チャン)氏は、孫運璿の招きに応じて工研院院長に就任している。80年には初のハイテク工業団地である新竹科学工業園区(竹科)も設立した。

 行政院長に就任した翌79年、台湾は米国との断交という一大事に見舞われる。全土津々浦々に不安が広がる中、孫運璿は台湾の未来をいかに切り開くか、徹夜で考える日々も多かったという。経済発展にこそ台湾の未来があるとの信念を持っていた彼は、各地のインフラ強化、農民の所得向上、インフレ抑制に力を尽くす。ちなみに孫運璿が経済部長に就任した69年から脳卒中に倒れる84年までの15年間に、台湾市民の1人当たりの国民所得は2,155米ドルから1万1,630米ドルへと5.4倍に拡大した。彼はまさに当時の奇跡の経済成長を体現した人物だった。そして、2010年代の今日も、台湾は彼が残した多くの業績の恩恵を受けている。

/date/2016/11/04/21news4_2.jpg展示室のもよう。当時の行政書類や日記なども見ることができる

 それゆえ孫運璿科技・人文紀念館は、その歩んだ人生と共に台湾の高度経済成長を振り返れる貴重な歴史の展示となっている。

 65年に世界初の輸出工業団地として誕生した高雄輸出加工区に関するコーナーでは、当時日系企業の工場で働いていた女性の、「毎晩11時まで残業、周囲の工場も皆そうだった」「自転車通勤者ばかりで、周りの自転車が多過ぎてこげないほどだった」などと語る回顧ビデオや、台湾日立の社員食堂で従業員が一斉に食事を取る写真が展示されている。

 聯発科技(メディアテック)の蔡明介(ミンカイ・ツァイ)董事長が、中央日報海岸版の広告を見て工研院の人材募集に応募し、米国に派遣されて研さんを積むなど台湾半導体業界の揺籃期を語るインタビュー映像や、孫運璿に報告を行う若きの日の宏碁(エイサー)創業者、施振栄(スタン・シー)氏の写真なども展示されていた。

現代に通じる長期的視点と気概

 21世紀の今の経済状況とは大きく異なる飛躍の日々の記録からは、高度経済成長時代が台湾の人々にとって既にノスタルジーの対象となっていることがうかがえた。同館によると、来館者は孫運璿の時代を知る中年以上の世代が多く、展示を見て当時を懐かしむという。

 台湾経済は低賃金や人材流出をはじめ課題が多く、孫運璿が今の時代に行政院長を務めたとしても、立て直しに手腕を振るえるかは分からない。ただ、彼が持っていた長期的視点と使命を必ずやり遂げる気概は、あらゆる時代環境や仕事に通じる重要なことではないだろうか。現代のビジネスマンが孫運璿から学べることは依然多いと思案しつつ同館を後にした。

/date/2016/11/04/21news3_2.jpg和式建物の書机。この机で日記などを書いた

吉川直矢

吉川直矢

ワイズメディア

東京外国語大学中国語学科卒。大手放送局記者、海外経済情報メディアでの編集長職を経て、07年Y'sニュース創刊に参加、以来編集長を務める。専門分野は台湾政治。

編集長のニュースに肉迫!