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作成日:2010年4月13日_記事番号:T00022054
台湾経済 潮流を読む
第36回 中国沿海部の人手不足の構図
世界金融危機による激しい輸出の落ち込みにさらされた台湾企業だが、世界景気の回復を追い風に、ITセクターを中心に回復軌道に乗った。輸出受注指数(季節調整値)は2009年9月には危機前の最高水準を上回り、明るさが見える中で台湾企業は旧正月を迎えた。しかし、その一方で旧正月前から中国工場における労働者不足の問題が急速に浮上している。
労働者不足の度合いは、企業によって異なるようであり、統計的にそれを裏付けることも困難である。報道等を総合すれば、大手メーカーの労働者不足の度合いはそれほど激しくないが、中小の部品メーカーは労働者を集めるのに腐心している、というところのようである。ただし、大手企業も中国の労働者不足の影響を免れ得たわけではない。賃金や福利厚生水準の引き上げなどの対応を採っているところも多いようだ。また、鴻海精密工業、広達電脳(クアンタ・コンピュータ)、英業達(インベンテック)といった台湾系ITメーカーが内陸部の重慶市への進出を決定したのも、長江デルタ地区における労働者不足を見据えたものだと報じられている。世界金融危機などを受けて足踏み状態にあった台湾系大手ITメーカーの対ベトナム投資も、中国における労働者不足、賃金上昇を受けて再び動き出す見込みである。
中国労働市場は転換点を迎えたのか
労働者不足の原因として04年ごろから指摘されてきたのは、中国農村部の余剰労働力の枯渇である。余剰労働力があるうちは、労働者自身の生存が図れ、家族を何とか養える賃金を払うだけで大量の農民を雇い続けられ、実質賃金の上昇率も低水準に抑えられる。
しかし、余剰労働力が枯渇すると、非熟練労働者であっても、労働者側の売り市場となり、実質賃金が急上昇する(例えば、日本の「金の卵」の時代を想起されたい)。日本では60年、台湾では60年代末、韓国では70年代初頭に、このような労働市場の「転換点」が訪れたとされる。中国も今そのような「転換点」に差し掛かっているのだろうか。
結論からいえば、「今の中国の状況は『偽の転換点』にすぎない」との見方が正しいように思われる。
追加的に労働力を投入したときに稼げる所得を「労働限界生産力」という。中国農業部門の「労働限界生産力」を試算すると、農民1人当たりの平均可処分所得の半分程度でしかない※1。沿海部で人手不足が叫ばれているのであれば、出稼ぎによって農民はもっと稼げるはずである。また、出稼ぎが増えれば、農業の労働生産性も改善されることになる。それにもかかわらず、1.6億~3億人もの余剰労働力が農業に滞留しているのである。
※1 南亮進・馬欣欣(2009)「中国経済の転換点」(『アジア経済』第50巻第12号、アジア経済研究所、12月)
制度が弊害を生む
その理由は、中国の制度上の欠陥にある。都市部に農民が出稼ぎをした場合、戸籍制度のせいで、子女の教育、社会保障などの面で差別的な待遇を受けるため、農民は過大な不利益やリスクを背負うことになる。しかも、世帯全員が出稼ぎに出るために、農地の請負権を売却したり、リースしたりすることも困難である。耕作を放棄し、離村した場合、地元政府に対価なく請負権を召し上げられることが多いためである※2。
※2 丸川知雄(2010)「中国経済は転換点を迎えたのか?――四川省農村調査からの示唆」(法政大学大原社会問題研究所編『大原社会問題研究所雑誌』No.616、2月号)
こうした不利益を避けるために、若年層は出稼ぎに出るものの、最低限農業を続けるのに必要な人員、子女の教育を必要とする中年女性などが農村に滞留するという状況が生じているのである。また、農地の集約化が進みにくいため、農業の生産性向上も図りにくいという弊害も生んでいる。
つまり、現在起こっている中国沿海部の労働力不足の問題は、こうした制度的欠陥によるところが大きいのである。上述した台湾企業を含め、中国内の企業はこうした制度的欠陥のツケを払っている状態にあるといえよう。
真の意味での「転換点」であれば、農業の労働生産性向上により農民の所得も改善し、非熟練労働者の実質賃金の上昇ペースも速まる。その結果、本格的な大衆消費時代が中国に訪れる。所得格差も縮小し、社会の安定にもつながる。しかし、「偽の転換点」を生み出している制度的な欠陥が放置されれば、格差是正はままならず、個人消費の拡大にも不利に働く。
また、都市部では労働力不足が激化し、輸出指向の労働集約型産業による第三国への移転がさらに起きやすくなる。あるいは、都市部は賃金上昇を受けて高度化のペースを上げざるを得なくなる。そうなると、農村部に大量の非熟練余剰労働者が滞留する一方、都市部では高度な知識を持つ人材の不足が生じるという構図がひどくなる可能性がある。そうなると、制度的な欠陥が解消されても、非熟練労働力である農民が資本・技術集約型産業主体に転じた都市部で働きにくくなる恐れが出てくる。
問題解決に残された時間は少ない
中国では15年ごろから生産年齢人口が減少基調に入る。とくに20歳代の人口減少が著しくなる。「偽の転換点」問題を解決するために残されている時間は、それほど長くはないのだ。
中国政府は08年から戸籍制度や農地制度の改革のスピードを上げる動きをみせているが、都市・農村間の利害調整、地方幹部の利権問題という難題を克服しなければならない。上述したように、その改革の成否は中国の持続的発展の可能性、中国ビジネスや東アジアにおける分業のあり方に深いところでつながっている。これから本格化する第12次五カ年計画の検討過程で、これらの問題がどのように扱われるかを注視しておく必要がある。
みずほ総合研究所 アジア調査部主任研究員 伊藤信悟