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第9回 MRT事件の拭い難い影


ニュース 社会 作成日:2014年5月30日_記事番号:T00050660

ニュースに肉迫!

第9回 MRT事件の拭い難い影

 4人が死亡、24人が重軽傷を負った台北都市交通システム(MRT)板南線の無差別殺傷事件の後、筆者が初めてMRT板南線に乗ったのは犠牲者の初七日に当たる27日午後のことだった。

  事件直後の車内ではスマートフォンを操作したり、本を読む人が減ったと報じられていたが、6日もたつとさすがにスマホでゲームや音楽に興じる乗客らが目に付き、車内は普段の姿を取り戻していたようだった。だが、電車が龍山寺駅を離れて事件の起きた次の江子翠駅までの区間に入ろうとした際、目の前に座っていた大学生くらいの若い男性が、スマホから顔を上げて注意深く周囲を見回した。車両の一番前の席で赤ん坊を抱っこしていた母親も車内を頻繁に見やっている。「不審な人物が乗って来ていないか」。2人ともその瞬間は警戒心で満ち満ちていたはずだ。かくいう筆者も鄭捷容疑者が足を踏み入れた2両目以降には座る気が起きず、先頭の1両目を選んで乗っていた。事件はMRTを利用する多く市民の心に拭い難い影を投げ掛けてしまった。

犠牲者に黙祷

 鄭容疑者が逮捕された江子翠駅で降りると、3番出口の上に犠牲者を悼む多くの花束がメッセージとともに供えられていた。この日は新北市衛生局主催で追悼会が行われ、事件の発生した午後4時26分に犠牲者への黙祷が捧げられた。「手を取り合い前に進むために祈ろう」と書かれた大型ボードには、「悲しみから立ち上がろう」などと記された来場者たちのメッセージカードが貼られていた。筆者もボランティアで手伝っているという若い女性から、メッセージを書いて欲しいとカードとサインペンを手渡された。善意でより良い社会を築こうと人々が積極的に行動する所に台湾社会の救いを感じた。


追悼会では多くの人が犠牲者の魂に手を合わせた(YSN)

社会の健全性後退

 ただ、MRT無差別殺傷事件は、台湾社会にそれとは逆の面が生まれていることを示した。台湾で無差別殺傷事件が起きたのは今回で3回目だ。初の事件は2009年3月に台北市士林区で、賃貸物件の家主(51)が見学に来た男(36)に殺され、家族も大けがをさせられたというもので、犯人の男は死刑が確定して現在執行を待っている。次いで12年12月に台南市で、30歳の男が一生刑務所で暮らしたいという理由で、ゲームセンターで見知らぬ小学校5年生の男児を刺殺している。男は不幸な生い立ちを背負い、精神状態に問題を抱えていたことが酌量され、昨年7月の一審では無期懲役判決が出たが、軽過ぎると批判の世論が巻き起こった。

 つまり、台湾での無差別殺傷事件が起きるようになったのはわずかここ5年のことなのだ。そして、今回は初めて公衆の面前で起き、複数の死者が出たインパクトの強さもあってか、模倣犯やいたずらが相次いでいる。台中市では23日、ハイテク企業の警備員が「鄭捷は俺のアイドルだ。俺も外国人労働者の殺害を計画している」とインターネットに書き込み、公共安全脅迫罪などで検挙された。29日には新北市汐止区の小学校に、16歳の少年が両手にカッターと果物ナイフを握り締めて乗り込んだ。在学中に教師から受けたいじめへの復讐が目的だったといい、警察の事情聴取に対し「鄭捷は人を殺せたのに、なぜ俺はだめなのか?」と叫んだという。

 フェイスブック(FB)には事件当初「鄭捷ファンクラブ」や「鄭捷頑張れ」といった無神経なページが立ち上げられ、世論の批判を浴びた。以前には見られなかった無差別殺傷事件が起きるようになったこと、模倣犯などが増えているということは、台湾社会の健全性が以前より後退している証左と見てよいだろう。

時間の問題だった可能性

 経済誌『今週刊』は今年4月、低賃金と地価高騰で、台湾の若い世代は一生働いてもマイホーム購入が厳しいことなどから、61%が将来に希望を抱けず、80%が社会的不公平を強く感じているとの調査結果を掲載した。若者を包む閉塞感が、時に過激な犯行に走る者やそれを称賛する者を生む背景にある。それは先進各国で共通の現象で、日本や米国ではここ10年余り、類似の通り魔殺人事件や銃乱射事件が頻発している。


板南線では当面、警察官が同乗して安全に目を光らせることになった(YSN)

 今回の事件は犯行そのものも驚くべきものだが、他の先進国ならばいざ知らず、台湾はこうした事件とは無縁という思い込みが破られたことが何よりも衝撃だったのではないだろうか。しかし、経済的条件の劣悪さに加え、ハイテク化の進行による個人の孤独感の深まりといった背景は台湾も諸外国と同じで、こうした事件が起こるのは時間の問題だったのかもしれない。

 今後こうした悲劇的な事件の再発防止のため、他者への警戒心が社会各所でより意識されるようになることだろう。不測の事態を警戒するのは当たり前のことではあるが、人々の相互信頼度の高さが台湾の魅力と強みであり、そうしたところが減じてしまわないことを願わずにおれない。 

ワイズニュース編集長 吉川直矢

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