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第160回 対米FTAの交渉は危険な賭けか?


ニュース その他分野 作成日:2020年9月8日_記事番号:T00091985

台湾経済 潮流を読む

第160回 対米FTAの交渉は危険な賭けか?

 蔡英文政権が対米FTA(Free Trade Agreement:自由貿易協定)の締結に向けて本格的に動き出した。米国との関係強化は、政権の重点事項だ。特に経済政策に弱いといわれる蔡政権が、対米FTAの締結を実現できれば大きな成果となる。しかしそこに至る交渉過程には、複数のリスクが潜んでいるのも事実だ。

馬政権と対照的なFTA戦略

 FTAとは、2国間で貿易の自由化を図るための取り決めである。1990年代以降、WTO(World Trade Organization:世界貿易機関)主導の多国間自由貿易の推進が機能不全に陥り、代わりに2国間のFTA締結が活発になっている。しかし台湾は中国の圧力により、正式な外交関係を持つ中米の小国としかFTAを締結することができなかった。そこで2008年に誕生した馬英九政権は、まず中国とのFTAを成立させて、そこから他国とのFTA交渉につなげようとした。中国とのFTAであるECFA(Economic Cooperation Framework Agreement:海峡両岸経済協力枠組み協定)は、今から10年前の10年に誕生した。

 ECFAでは、先行措置(アーリーハーベスト)として農産品、機械、プラスチック製品を中心に中国側で539品目、台湾側で267品目の関税が撤廃された。つまり品目数で見れば、台湾側に有利な内容であった。中台貿易は、当時の中国経済の好調とも相まって10年から11年にかけて順調に伸びていった。しかし14年に馬政権が協定の範囲をサービス業に広げようとすると、安全保障や社会秩序に及ぶ悪影響が懸念され、台湾内部で大きな反発が生じた。そしてこれを機に、台湾では中国との経済交流に対して批判的な見方が強くなった。

 蔡政権はこうした経緯も踏まえて、馬政権とは正反対のFTA戦略をとろうとしている。すなわち馬政権がG2(米中)のうち中国に接近したのに対し、蔡政権は米国を取り込もうとしている。また馬政権が中国との関係改善を通じて国際社会にアプローチしようとしたのに対し、蔡政権は米国との関係強化を軸に、日本や欧州など自由と民主主義という価値観を共有する国々との経済連携を見据えている。2人の出自やイデオロギーの違いから、戦略が対照的になるのはある意味当然だが、ここに来て蔡政権の対米FTA戦略は加速しているようにもみえる。

交渉開始のさいは投げられた

 蔡総統は8月19日に行われた経済団体との会合で、米国とのFTAに向けて「交渉の準備が整った」と発言した。(1)5月20日の総統就任演説の際にも、日米欧諸国との貿易や投資保障の協定締結を目指すとしていたが、8月19日の発言はこうした構想の具体化に向けて一歩踏み出したことを示唆しよう。

 交渉開始のための実務的な措置も始まった。8月28日夕方の記者会見で、蔡総統は米国産牛肉と豚肉の輸入を21年1月1日付で原則解禁すると発表した。台湾はこれまで、安全面での理由から米国産の牛肉と豚肉の輸入について、一部を除いて認めてこなかった。そして、対米FTA交渉においても、米国産の牛肉と豚肉は最大の障壁になると見込まれていた。しかし今回は、台湾が自ら輸入解禁に動く意思を先に示した。ここに、蔡総統の対米FTA締結に対する本気度がうかがえよう。交渉開始のさいは既に投げられたのである。

交渉上の三つのハードル

 もし対米FTAの締結が実現すれば、蔡政権にとって経済および外交上の大きな成果になる。それを機に、国際社会における台湾のプレゼンスも高まることになるだろう。しかしその実現までには、少なくとも三つのハードルが存在する。

 一つ目は、言うまでもなく中国だ。台湾と米国がFTAを結ぶことは「一つの中国」の原則に反するため、中国の激しい反発が予想される。現状の米中関係を鑑みれば、中国の反発を無視して、米国が台湾とのFTA交渉を進める可能性はある。しかし中台関係の悪化は決定的となり、中国は台湾に対しあらゆる方面で圧力を強化することが予想される。

 二つ目は、交渉相手の米国だ。トランプ政権は中国との対決姿勢を強め、これが台湾に今のところ有利に働いている。しかしそれは11月の大統領選に向けたパフォーマンスとの見方がある。つまり米国は、中国や台湾を選挙戦略のカードに使っているにすぎないということだ。また民主党のバイデン候補が当選した場合、米国の対中政策が大きく変わる可能性がある。これまで民主党は共和党に比べて、中国に対して穏健的なアプローチをとってきた。

 そして三つ目のハードルは、台湾内部に存在する。FTAの交渉が進めば、これまで高関税で守られてきた域内産業の利害関係者からの反発が必至だ。また米国産の牛肉や豚肉を巡っては、その安全性がかねて不安視されている。実際、馬政権時代でも09年に米国産の牛肉輸入規制を緩和しかけたが、与野党からの猛反発を受け、頓挫した経緯がある。何よりこの時、野党民進党の主席として批判の急先鋒(せんぽう)に立ったのは、蔡氏自身であった。

 こうしたハードルを蔡政権はどのように乗り越えるのだろうか。高い支持率を持つ今こそ、困難な課題に取り組むタイミングともいえる。しかしハードルに一つでもつまずいたら、蔡政権は支持基盤を失い、台湾の国際社会における生存空間も狭まることになりかねないだろう。

出典:(1)日本経済新聞(2020年8月20日朝刊11ページ)

赤羽淳

赤羽淳

中央大学経済学部・大学院経済学研究科 教授

東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)を取得。株式会社三菱総合研究所にて、主に日本のモノづくり企業の海外進出コンサルティング業務(主に新興国)に従事。豊富な調査・コンサルティング経験に基づき、現在は中央大学にて、実践的な教育と研究活動に従事している。1997年に台湾総合研究院客員研究員、99年から2001年まで台湾師範大学、台湾大学経済系研究所へ留学経験あり。 論文多数執筆、著書に『東アジア液晶パネル産業の発展:アジア後発企業の急速キャッチアップと日本企業の対応』(15年6月、第31回大平正芳記念賞を受賞)、『アジアローカル企業のイノベーション能力』(19年2月、18年度中小企業研究奨励賞(経済部門準賞)を受賞)などがある。

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