記事番号:T00001936
1976年に宏碁(エイサー)を設立した施振栄氏は、「60歳で引退する」と公言していたとおり、3年前の2004年に引退した。宏碁での28年間、事業環境の変化に対応するため2回の企業再生を行い、また、すっぱりと引退したことは、後継経営陣への事業引き継ぎの良い事例を創ったといえる。宏碁集団は施氏の指導の下、台湾最大のブランド企業、世界4大パソコンメーカーの1社へと成長。その一手で創り上げたABWファミリー(Acer、BenQ、Wistron)の昨年の売上規模は、1兆1,515億台湾元(4兆1,640億円)に上った。
創業時の資本金100万元は、施氏の妻が半分を出資し、残しは施氏を含め事業パートナー5人で出し合った。事業を始めるに当たって、施氏は他の事業パートナーたちと、以下の3つの取り決めをした。
1)万一会社の経営が厳しくなったら、少数で守る一方、残りの者は他に仕事を探して、会社を持ちこたえさせる。厳しい時期は施氏の給料(3万元)を半額にし、妻には2年間支給しない。残りのパートナーの給料は2割引とする。
2)創業初期は施氏が主導するが、指導力や財力の不足が明らかになれば、他の人材に会社の運営を任せる。
3)施氏と妻で会社の株式の半分を所有するが、施氏の方針に事業パートーナーたちの半数が反対した場合、それを改める。
三番目の取り決めに見られるように、宏碁は創業当時から企業の利益を個人の利益よりも優先させる社風があった。ファミリー企業として歩むのではなく、一般株主を尊重する方針を明示し、これによって、その後の株主や従業員との信頼関係の基礎が築かれた。
分社を果断に実行
2000年、内外の経営環境の変化によって、それまでブランドとOEM(相手先ブランドによる生産)を併存させてきた宏碁は、OEM専門メーカーとの競争で徐々に競争力を失いつつあった。施市はここで創業以来2回目の企業再生に取り組む。
まず、ブランドと研究・製造の2部門を分割し、OEMサービス部門を緯創資通(ウィストロン)として独立させた。続いて明基電通(BenQ)というIT家電中心の新ブランドを立ち上げ、さらに傘下の達碁と聯華電子(UMC)グループの聯友を合併させて、友達光電(AUO)という台湾最大の液晶パネルメーカーを設立した。こうした一連の措置は今の時点から見て、宏碁の長期的発展にプラスとなっている。
宏碁がこの時にとった3大戦略は、
1)組織改造─会社内部の重複をなくし、ブランドとOEMを分ける。
2)運営モデルの改造─「三つの一つと三つの多い」。
「三つの一つ」は、単一企業、単一ブランド、単一グローバルチーム。
単一企業は、特定の企業の傘下には多くの子会社が存在するが、あらゆる企業は原則として宏碁の100%所有で、それらを一つの企業と見て経営するもの。また、単一ブランドは、当時はAcer以外にも多くのブランドが存在したが、宏碁はAcerのみを経営するというものだ。
こうした発想の上で、全グループを一つのチームと見て、あらゆる事業群、世界各地の拠点を、経営戦略委員会の中央集権的な決定によって動かした。
3)プロセスの改造─「ニュー・チャネル・ビジネスモデル」の採用。
従来の卸売業者に頼ったモデルを改め、直接サプライチェーンを管理し、在庫を最低にまで減らした。
施氏はよく、「Me too is not my style」という言葉を口にしていた。この創意で知られたIT業界の巨人が打ち立てた良質な企業文化は、施氏が引退したこれからも、ずっと続いていくに違いない。
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